SEKIROのエンディングの一つが「修羅エンド」です。
修羅エンドでは、狼の腕から炎が出ていますが、この炎は何を表しているのでしょうか。
そこでこの記事では、修羅とは何かについて考察していきます。
修羅とは何か?
結論を言うと、修羅とは本来の目的を忘れて人殺しの悦びにのみ心を囚われた人物がなってしまう存在であると考えられます。
修羅については一心が以下のように話しています。
一心
…昔、儂は…
修羅を…、いや、修羅の如きものを、斬ったことがある
狼
それは、一体…
一心
斬り続けた者は、やがて、修羅となる
何のために斬っていたか…
それすら忘れ、ただ斬る悦びのみに、心を囚われるのじゃ
お主の目にも、修羅の影があるぞ
ここで重要な点は、同じ人殺しでもきちんとした目的のある人殺し(=忍びとしての殺しなど)ならば修羅にはならないということです。
これは、上テキストの「何のために斬っていたか…それすら忘れ」というセリフで示唆されています。
また、狼の使用する刀である「楔丸」のテキストでも示唆されています。
楔丸
主である竜院の御子・九郎より授かった刀
葦名の庶家である、平田氏に伝わるもの
失っていたが、再び狼の手に戻った
楔丸の名には、願いが込められている
忍びは人を殺すが定めなれど、
一握の慈悲だけは、捨ててはならぬ…
その願い、時に刃が汲むこともあろうか
上テキストにおける「一握の慈悲」を失った者が落ちる先が修羅であると考えられます。
そして、「楔丸」の名前の由来は、修羅ではなく人間として存在するための「楔」になってほしいという願いからきているのだと解釈できます。
また、仏師が狼に忍義手を渡したことも、きちんとした目的のある人殺しならば修羅に落ちないことを知っていたからこそであると解釈できます。
以上の考察から、修羅の正体とは本来の目的を忘れて人殺しの悦びにのみ心を囚われた人物がなってしまう存在であると考えられます。
怨嗟の炎の積り先
修羅になった者は、怨嗟の炎の積り先になってしまうと考えられます。
これは、「修羅エンド」で修羅となった狼の手に怨嗟の炎が宿っていることから推察されます。
ちなみに狼が修羅になってしまったことは、エマの最期の「しゅ…ら…」というセリフや、エマを斬った狼が笑みを浮かべている(=人殺しに悦びを感じている)描写からわかります。
また、かつて修羅となりかけた仏師が怨嗟の炎の積り先となっていることからも、修羅になった者が怨嗟の炎の積り先になってしまうことわかります。
修羅の末路が怨嗟の鬼
修羅に落ちた者の末路は怨嗟の鬼であると考えられます。
これは、かつて修羅になりかけた仏師が怨嗟の鬼となってしまったことからわかります。
ここで、仏師が怨嗟の鬼となるまでの過程をまとめてみたいと思います。
仏師はかつて「飛び猿」という忍びでした。
そして、飛び猿は忍びとしての任務をこなしていくうちに、修羅になりかけたのだと考えられます。
これは、修羅エンドで狼がたどった経緯と同じであると考えられます。
しかし、仏師は完全に修羅になったのではなく、一心が仏師の左腕を切り落としたことで、仏師は修羅にならずに済んだのだと考えられます。
飛び猿の忍び斧
落ち谷の飛び猿と呼ばれた忍びが、
かつて愛用した忍具
だが飛び猿は、左の腕と共にこれを失った
仏師
…いや、うまい
…プハァー!
じゃが、傷がうずくのよ
狼
その左腕か
仏師
ああ、この酒を好きな御方に…
くく…斬り落とされたのじゃ
狼
それは…
仏師
一心様よ…
狼
…何故、一心様が
仏師
……
…斬って…くださったのじゃ
飲まれかけた、儂のためにな
狼
何に、飲まれかけたのだ?
仏師
…修羅
…まあ、信じるか信じないかは、お前さんしだいじゃが…
せいぜい気をつけな
修羅の影にな…
一心
…昔、儂は…
修羅を…、いや、修羅の如きものを、斬ったことがある
以上の話から、修羅になりかけた仏師の左腕を一心が斬ったことで、仏師は完全な修羅にならずに済んだのだと考えられます。
余談ですが、仏師の左腕を斬った技は「奥義・葦名十文字」であると考えられます。
奥義・葦名十文字
疾く斬ることを一意に極めた
葦名流の奥義である
儂の十文字は、修羅の腕をも斬り落とす
剣聖・葦名一心は、そう嘯いた
こうして修羅になりかけたのを救われた、仏師は忍義手を使って一心に仕えることになったのだと考えられます。
しかし、一度修羅になりかけた仏師は怨嗟の炎の積り先になってしまったのだと考えられます。
仏師が一度修羅になりかけたことで、怨嗟の積り先になってしまったことは、「戦いの残滓・怨嗟の鬼」のテキストに記載されています。
戦いの残滓・怨嗟の鬼
ある男が、修羅になりそこない、
怨嗟の炎の積り先となった
因果ゆえ、なかなかに死にきれぬ
だが、鬼となり、ようやく逝けた
加えて、忍びとして人を殺す機会の多い仏師は、ついに怨嗟の炎が漏れ出すようになったため、忍義手を捨てたということが「奥義・纏い斬り」のテキストに記載されています。
奥義・纏い斬り
牙と刃が一体となる、忍義手法の奥義である
この奥義を最後に、仏師は忍義手を捨てた
極め、殺しすぎた。怨嗟の炎が漏れ出すほどに
そして忍義手を捨てた後は、怨嗟の消すために、仏師は仏を彫るようになったのだと考えられます。
エマ
炎は… まだ、消えませんか?
仏師
エマよ…
何度聞いても、変わりゃあしない
いくら仏を彫ろうとも、怨嗟の炎は消せぬ
押し留めるが、せいぜいじゃ
老婆
ずっと仏を掘り続けてなお
怨嗟の炎に焼かれ、鬼となり苦しむは
…あ奴の自業、因果なのさ
あんたはそれを終わらせた。送ったんだよ
…あ奴も、きっと感謝しているさね
そして、内府と葦名の戦が起きたことで大量に発生してしまった怨嗟の炎に飲み込まれて、仏師は「怨嗟の鬼」になってしまったのだと解釈できます。
老婆
用がなければ、もうお行き
…もうすぐ、戦になる。惨い戦にね
屍は山と詰まれ、怨嗟は大火のように渦を巻き…
きっと、鬼が生まれっちまうよ
以上の話から、修羅に落ちた者は最後に怨嗟の鬼になってしまうと考えられます。
実際、修羅エンドの最後では、修羅に落ちた狼が怨嗟の鬼になってしまったことが示唆されています。
ナレーター
葦名は、戦国もっとも凄惨な殺戮の舞台となり
その地には、後々まで鬼が棲んだという…
みなさんも、修羅エンドだけは絶対に選ばないようにしましょう、、、、
おわりに
以上で修羅に関する考察を終了いたします。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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